2026年 02月 03日
「猫の不幸 ー 阿部昭」日本の名随筆3 猫 から
猫ブームだそうであるが、私のところは湘南の海辺でまだ松林も多少残っていることから、野性の猫が不断に供給される。飼い猫が家出したものや、捨て猫が長じて野良猫と化したものや、その子孫たちである。彼らはべつに人間に飼われなくても結構楽しく暮らしているようである。
私はシャムだのペルシャだの、いわゆる高級な猫を仕入れて血統を競ったりする余裕もないから、そこらの野良猫を手なずけて満足している。それも、ある日ぶいと出て行ってしまえばそれまでで、飼ったり飼わなかったりである。大体、この飼うというのが人間の一方的な言い分で、猫のほうにわれわれと平和的に共存しようという意思があるとも思えない。
デパートのペット用品の売り場をのぞいてみると、さすがに猫ブームだけあって、猫の日常生活に必要な商品が揃っているのに感心する。最近は水洗便所に流せる紙の砂まで売っている。団地やマンションに居住する猫たちの必需品なのであろう。猫の爪みがきというのもある。段ボールを圧し固めた分厚い板きれ状のもので、ひそかにマタタビをしみこませてあるという。猫がこれを掻きむしると、マタタビの粉が埃とともに鼻孔に吸いこまれる。そこで掻けばかくほど猫はいい気持になる仕掛けらしい。これをあてがっておけば、柱や襖、大事な家具やステレオのスピーカーのグリルなどをやられなくてすむのであろう。
猫の身になって開発された、これら至れり尽くせりの製品は、発明者の愛情苦心のほどがしのばれて微笑ましいといえば微笑ましいが、ここまで人間のサービスに甘んじては猫の威厳にかかわりはしないかと思う。いやしくも猫が猫であるためには、やはり戸外で野ネズミやトカゲをつかまえたり、バッタを咬みつぶしたり、自分の決めた木の幹や物干し場の柱で心ゆくまで爪をといだりするのが望ましいであろう。用便にしても、好みの砂場を好きなだけ掘ってゆっくり腰を下ろしたかろう。われわれ人間としても、猫たちのそうした獣らしい自由な振舞いを眺めることこそ快楽であったはずではないか。
ところが、どうやらそれは過去の飼い猫の話で、これからの猫はますます人間に管理される「過保護」猫となり、都会ではむろんのこと田舎でも密室で生活するようにしつけられるのではないかと想像される。私の予想するところでは、この未来猫はまず屋外では用便をしない。そのころには猫の居場所はどこもかしこもコンクリートで固め尽くされているからで、たまに外へ出してやっても大急ぎで逃げ帰るくらいである。また、現在のところは人間も猫のしきたりを重んじて糞しなどを用意してやっているが、いずれはその程度の砂も――たとえ紙の砂であっても――猫は取り上げられてしまうにちがいない。それでも、用便の前後に前肢で掻く古い習性だけは残っていて、コンクリートでもタイルでもカリカリと掻くから、大人はふしぎがる子供たちに、昔の猫はああやって土を掘ったりかけたりしたものだ、などと教えてやらなくてはならないだろう。
猫の食生活も大いに変化していると考えられる。未来猫は、ひょっとすると、魚を丸ごと食うことをひどく苦手とするようになっているかもしれない。ドライフードやかん詰肉のたぐいに慣れ切って、骨つきの魚を処理する勘がにぶった結果、いたずらに咽喉に骨を立てるなどして大事に至る猫さえ出るからである。給食でフォークばかり使っている子供が全然箸の扱い方をおぼえないというのに似た事情である。
閉じこめられた猫は、また、運動不足の上に栄養障害が重なり、人間でいえば糖尿病とか歯槽膿漏とかいった厄介な病気にかかりやすく、容色も早く衰えて短命であるにちがいない。高い所から飛び降りたひょうしに、いやに簡単に骨折してしまう猫や、鳥目になって日没後は身うごきもしない猫なども珍しくないだろう。
過保護の動物のつねとして、こういう猫は飼われている部屋からさまよい出たり、持て余されて捨てられたりすると、自力では生き延びられない。ゴミ溜めあさりなどやったこともなく、やってみる気力も才覚もないから、飼い鳥が籠から飛び出したが最後、飢え死にする他ないのと同じである。それに、そのころには猫の社会でも親子の絆は消滅し、狩猟の伝統も絶えているから、そのへんの小動物や昆虫を捕って食べることなど思いもよらない。そうして、かつては鋭い牙と爪を駆使し、眼光するどく、魔性とか魔物とか言われ、人間のお節介をしりぞけ、清潔をむねとして、あくまでも誇り高かったという猫が、彼らの祖先が見たら嘆くような醜態をあちこちでさらしているのが見られる。
私の予想はおよそあてにならないが、万一そうなればなったで、また愛猫家たちが立ち上がって猫の野性を回復する運動などをはじめるのであろう。


