2025年 11月 03日
「楢山節考(仮題) ー 深沢七郎」中公文庫 言わなければよかったのに日記 から
◇「楢山節考」の新人賞の受賞式の夜から、私は深沢七郎という新しい人間に生れ変ったのではないかと思う。あの受賞式の夜から、私の頭の中はピーマンの中身をそっくり取り出して、ハムかソーセージでも詰め替えるような大手術をしなければならないかと思う程、恐ろしい晩だった。あの受賞式以前まで私が考えていたことは、受賞式以後はひっくり返るようにちがってしまったのだ。左隣りの席には正宗白鳥先生、右隣りには伊藤整先生、前には中央公論社長、三島由紀夫先生、武田泰淳先生である。後で考えれば豪華な晴れの席だのに、私は、その時、腹ワタが煮え返るような嫌な席だと思っていたのだ。後で考えれば、この先生方は温い手を差し延べて下さる神様のような方々だったのに、私は意地の悪い人達にとり囲まれてしまったという、とんでもない正反対なことを考えていたのだ。なんとなくそんなふうに思い込んでしまったのだった。小説が出てからは丸尾長顕先生が、いつも一緒にいてくれたのに、今夜は一人でこんなところに来てしまったのだ。知らない人達と云っても文壇の一流の人達である。えらい人というのは怖っかないものだと思った。なんとなく意地悪の人達にとり囲まれてしまったと思
い込んでしまったのだ。おっかないことと意地が悪いということを一緒にしてしまったのだ。それ程私は非常識な、ものを知らない男だったのだ。私はその時、「楢山節考」という小説を書いたことに後悔していたのだった。なぜ?ボクは、人生というものを、もっと深く考えて書かなかったのだろうと後悔していた。だから、まわりの先生方を意地悪だなどと思い込んでしまったのかも知れない。ボクは「おりん」のような老婆が好きで、ただ好きでという気持だけで書いたのだ。そんな軽い気持で書いたことは、何か罪悪でも犯したような気になってしまった。あの小説を新人賞に応募する時、丸尾先生が「中央公論」の雑誌の募集規定の所を拡げて宛名を紙に書いて下さったのである。(こんなものが選ばれやしない)と思った。「中央公論」なんて官庁で発行しているような気がした。(そんなカタイ雑誌で、こんなものが選ばれるわけがない)と思った。(出すだけムダだ)と思った。だがその反対に、(試しものだ)とも思ったりした。(誰かと試合でもする)ような気もした。(試合をするなら、ちょっと、試してみたい)とも思った。(とてもダメだ)ときめていたのに当選の電報が来たのである。「当った、当った」と家の者が云うのを聞いていた男だちは小学生だが、こないだ、読売新聞のクイズを出したのは、ボクが書いてやったので―――そのクイズが当ったのだと思ってハシヤイでいた。私は、あの小説が雑誌にのって、それでボクは用事がないのだと思っていた。苦しい受賞式の席で(こんな思いまでして賞金をもらうなら、来なければよかった)とも思ったりしていた。
当選の電報を持って中央公論社へ行ったのだが、電報を持って行って窓口へ見せれば窓口の女の子が賞金の十万円をくれて、それを貰ってくれば、それでいいのだ、それで用事はないのだと思った。「ちょっと待っていろ、すぐ貰って来るから」と弟に云って家を出ると、うしろから「おいく、待てく」と弟が呼ぶのである。「なんだ?」とひきかえすと、「ハンコを持って行かなければくれないかも知れんぞ」と云うので、あわててハンコを掴んで家を出た。「ちょっと待ってろ」と云って中央公論社へ行ったのだが部屋へ通されてしまったのである。編集の人が三人も出て来ていろんなことを質問されるのでめんくらってしまった。それから社長が出て来てボクのすぐそばに腰かけてベラベラとボクをホメたので呆れかえってしまった。(社長ともあろう人が、あんな小説をホメたりするけど、そんなことを云っていいものかしら?)と、ハラハラした。生れてはじめて自分の書いたものをホメられたのである。とても、ひとには見せられないものだから、今まで丸尾先生以外は親しい友達二、三人と弟ぐらいにしか見せなかったのだった。誰もホメ手がなかったのに、目の前で社長がホメたので、(もし、いい小説だったら儲けものだ)と思った。ホメられるとボーッとして一刻も早く家へ帰りたくなった。(こんなことをしてはいられない、そんなことを云われるなら、こんどははじめから一生懸命に書かなければ)と気がイライラしてきた。その日はゼニはくれず受賞式の時に貰ったのだが、その時はもう、ゼニなど貰わなくてもよいと思った程、小説を書くということが恐ろしいことになっていた。
受賞式の日から、私は、今までとは別なもう一人のボクが、知らない国を歩いているのではないかと思う。ふらふらと、もっと小説を書きたいと思ったり、もう書くことなど止めてしまおうと思ったり、また書き出したくなったりした。私は自分の好きな情景を書いてみたいだけだ。絵が下手だから、せめて、景色を、絵のように書いて、それがたのしいことなのだ。
「楢山節考」は、ちょっと、意外だった。残酷だと云われたのも意外だが、異色だと云われたのも意外だ。もっと意外なことは、何か、人生観というようなことまで聞かされたのは意外だった。あんなふうな年寄りの気持が好きで書いただけなのに、(変だな?)と思った。親しい人達が感想を話してくれて、いつだったか、そんな時に、ふっと、遠い日に考えたことを思いだした。私は若い日に、人生などということを真剣に考えたことがあった。そんなことを考えることはバカバカしいことだと思っていた。もう考えないことにしていた筈だった。いつだったか、ボクはふとんの中で、(もしや?)と思った。(ひょっとしたら、「楢山節考」には?)と思った。あの小説には、ボクが忘れてしまった人生観などという悲しい、面倒クサイものが、書こうともしなかったのに、形を変えて書いてしまったのではないかと思った。親しい友達が遊びに来てくれて、「おりん」の感想を聞かせてくれたりすると、ボクは、(どこかで? 聞いたことがあるぞ)と思ったりするのだ。ふとんの中で、(もしかしたら?)と、びっくりした。もしそうだったら、とんでもないことだ。小説とボクでは全然違うものだと思っているのに。もしそうだったら、ボクは、また、人生観などという、暗い、深刻な、見つけたら叩きつけてやりたいような憎らしいものを、また、考えなければならないのだろうか。
あの時、丸尾先生が、
「今、中央公論社で新人賞を募集しているから、これを清書して出せよ」
と云って下さった時に、
「あの、宛名はどこですか?」
と、云わなければよかったのに云ってしまったのだ。


